東京高等裁判所 昭和50年(う)1567号 判決
被告人 山本欣延
〔抄 録〕
そこで記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌したうえ、被告人に未必の殺意があったかどうかについて検討するに、未必の殺意の有無を判断するには、犯行の動機、犯行に至る経緯、兇器の形状、性能、加害行為の態様ならびに被害者の受傷の部位、程度など諸般の事情を総合して認定することが必要であることは所論のとおりである。とくに兇器の形状等、加害行為の態様および受傷の部位、程度は、未必の殺意を推認させるに足る要因となり得る場合が多い。ところで記録によれば、被告人が本件犯行に用いた兇器は刃渡り約一三センチメートルの先の尖った登山ナイフであり、被告人は右登山ナイフを被害者宮田政美の腹部に突き刺して上腹部肝刺創の傷害を負わせたことが認められるところ、右形状等のような登山ナイフをもって人の身体の枢要部に力一杯突き刺したとすれば、被害者に致命傷を与えうるものであることを考慮すると、そのことから一応未必の殺意を推認し得ないではない。しかし本件の場合記録によれば、被告人はこれまで被害者宮田政美とは全く面識がなく、被告人が原判示の「若駒寿司」において寿司を食べたり、ビールを飲んでいるうち、たまたま同店に居合わせた右宮田が被告人の方を向いて友人と雑談しているのを認め、宮田に対し話しかけ住所や勤務先等を問い質したのに対し、被告人を暴力団員と感じた宮田が被告人とのかかわりあいになるのを避ける意図から曖昧な返答をしたうえ、嘘の勤務先を述べたことに端を発し被告人が立腹したものであり、本件犯行の動機、原因は些細なものであって、被告人が暴力団員であり、過去に傷害事件を一度犯したことがあること、被告人が激し易い性格であることなどを考慮しても未必的にも殺意を抱く動機としては極めて薄弱であること、宮田の受けた傷は、腹部上部にほぼ水平に約一・五センチメートル、垂直に約三・五センチメートルの長さの型のものであり、深さは表皮面から約五センチメートルであって、ある程度の力が加わったことは否定できないが、力一杯突き刺したものではなく、(医師芦川恒夫の検察官調書参照)加療約一か月間を要する程度にとどまっていること、被告人は一回突き刺しただけであって、突き刺した後、被害者が走って逃げるのを数メートル追いかけたが、すぐに追跡を諦めてタクシーで逃走しており、その攻撃は執拗でないこと、登山ナイフもたまたまポケット内にあったものであることが認められ、これらの事実に、被告人が捜査以来ほぼ一貫して殺意を否認する供述をし、本件現場でも初めは殴るつもりだったが宮田の返答を聞き無意識に登山ナイフをとっていたと述べていること、被告人が「若駒寿司」店内で宮田と言葉を交わしてから本件犯行に至るまでの経緯などを合わせ考えると、被告人において、宮田が死に至るもやむなしとの意思、すなわち未必の殺意で本件犯行に及んだものと断定するにはたぶんに躊躇されるものがある。なるほど、被告人の検察官調書中(記録一五六丁、一五七丁)には、「このような大形のナイフで腹だの胸だのを刺せば、場合によっては人を死なせてしまうことがあるということは私も承知はしておりました。」とか、「死なないように刺してやるという気持でやったことでもありません。」と未必の殺意を認める趣旨の供述部分が認められるが、他方右記載部分の前後には「宮田さんを刺したときに私としては腹は立っておったし、かあっとしてはおりましたし、この野郎殺してやるとまで思って刺した訳ではありません。」「そのときの気持を説明しろと言われても私としては、ただ腹立ちまぎれにかあっとして夢中で刺してしまったとしか言いようがないのです。そのときの気持としては相手が生きるの死ぬのということに気を回わすだけの余裕はありませんでした。」旨供述していることに、前記本件犯行の動機、犯行の経緯、態様などを照らして考えると、被告人の前記未必の殺意を認めた部分は、被告人の真意であるか疑わしく、たやすく措信しがたく、他に被告人が未必の殺意をもって本件犯行におよんだと認めるに足りる証拠はない。そうすると、被告人の本件所為は傷害罪にあたると認めるのほかなく、これを殺人未遂罪に問擬した原判決は、事実を誤認し、法令の適用を誤った違法があり、しかも右誤りが判決に影響を及ぼすことも明らかである。論旨は理由がある。
(石田 柳原 小林昇)